川嶋伸行「きりふのしほり二」桐生の歴史調査報告
川嶋伸行 発行
2019年5月1日 発行
前記事(こちら)の「きりふのしほり」の続編「二(2)」になり「きりふ明治・大正・昭和」の第64号から第94号までをまとめたものになっています。こちらの第3部にはなぜか「大正時代の電話番号表」も掲載されています。第2部の特別寄稿を寄せているコラムニスト山本輝通氏は電話番号表の感想として下記のように書いています。
電話が開通した当時はそんな知識はなく、電話番号は序列を表す序数だと考えられていた。従って、その町の有力者順に1番、2番と電話番号が付せられた。「電話は1番、カステラ2番、3時のおやつは文明堂」のコマーシャルソングは、当時の模様を伝えている
第2部 きりふのしほりの凡例 解説にかえて コラムニスト山本輝通
あのCMはよく覚えていますがそういう意味があったのかとあらためて気づいたしだいです。
その他にも「両毛禁酒会 キリスト教との関わり」や「三越桐生店の歴史と伏せ機」も紹介したいとは思いますがこのサイトでもたびたびでてくる忍山温泉を取り上げた記事を紹介したいと思います。
第92号 忍山鉱泉昭和の旅
忍山川は良く釣りに行きますのでかつて温泉があったことは知っていますが具体的には噂の域をでないレベルしか知りませんでした。尊王の士、高山彦九郎がきて『忍山湯旅の記』を書いていることで一部では有名ですが最後まで営業をしていたころの様子はわかりません。今回の記事と今までの情報をまとめると
営業していた温泉宿
忍山鉱泉湯元 忍山館
温泉神社があるあたりでしょうか?いまだに場所が特定できず。
奥の湯元 三光館
三光館は今の山光館のことでしょうか。山光館は今も廃墟が残っていてとなりにはバンガロー跡ものこっています。大川家が営業をしていましたが平成になったころやめてしまったようです。
他にも宿はあったと思いますがいかんせん情報が少なすぎます。
温泉
この号に掲載されている昭和13年の広告をみるといずれも「ラジウム(ラヂウム)含有量多く・・・」とあるのでいまふうにいえばラジウム鉱泉と思われます。また民話でもお湯が熱くなったり、冷たくなったりとある一定周期で温度が変化するようです。昭和初期は35.5~49度ぐらいだったと書いてありました。
交通
大正のころには徒歩から乗合自動車が開通して桐生駅からきていたそうです。
まだいろいろと不明な点もある忍山温泉ですがただでさえ少ない資料の中でも絵葉書が多いのでイメージが沸きやすい読み物になっています。さらに気なる記事がありました。
高沢鉱泉の記述が最後にありました。さっそく川嶋房次郎と「明日への遺産」を桐生市立図書館でしらべてみましたがまったくてがかりがありません。今月はコロナの影響で2階も閉鎖されていますので調べ物ができずらくなっています。2020年の開館も12/27が最終、2021年は1/5からなのでもう少し調べてみます。
1973年までの18年半を桐生で暮らしていました。
忍山温泉には一度行ったことがあります。1960年代の半ば頃という記憶ですが曖昧です。当時通っていた教会の日曜学校の夏休み日帰りハイキングで、忍山館か三光館かどちらかはわかりませんが、休憩で使わせてもらいました。立派な建物だったと思います。宿のすぐ前の忍山川は深い淵があって、一人が潜ってみましたが、かなり(数mくらい)深かったようです。ストリートビューで見る今は、当時の面影はまったくありません。
何かお知りになりたいことがありましたら、18年余の記憶程度ですが、メイルでお知らせください。在桐で高校時代の同級生も健在ですので。
コメントありがとうございます。年末年始は家の仕事をしていて気が付かずすみませんでした。ぜひメールさせていただきますのでよろしくお願いいたします。