群馬県民俗調査報告書第12集「桐生市梅田町の民俗」

群馬県民俗調査報告書とは?
群馬県教育員会が日常生活の中にある郷土のこころ、よき伝統が貴重な文化財という自覚なく急速に失われていることに危機感をもち、 昭和33年(1958)から 毎年県内のある地区をえらび上毛民俗学会会員を中心にした民俗調査を続けていました。桐生市梅田町は昭和44年(1969)に実施されこの本にその様子がまとめられています。正確な書籍名は「群馬県民俗調査報告書第12集 桐生市梅田町の民俗」で桐生市梅田町は群馬県教育委員会が行った民俗調査の第12回目にあたり、それまでの調査地と桐生市梅田町以降の地区は下記のとおり
- 利根郡片品村 昭和33年度
- 多野郡上野村 昭和34年度
- 邑楽郡板倉町 昭和35年度
- 吾妻郡六合村 昭和36年度
- 佐波郡境町 昭和37年度
- 北群馬郡榛東村 昭和37年度
- 多野郡鬼石町(下久保ダム水没地) 昭和39年度
- 勢多郡東村 昭和40年度
- 碓井郡松井田町(坂本・入山地区) 昭和41年度
- 勢多郡北橘村 昭和42年度
- 利根郡白沢村 昭和43年度
- 桐生市梅田町 昭和44年度
- 水上町 昭和46年度
- 千代田村 昭和47年度
- 嬬恋村 昭和48年度
- 薮塚本町 昭和49年度
- 前橋市域南地区 昭和50年度
- 倉渕村 昭和51年度
- 大間々町 昭和52年度
- 高崎市東部地区 昭和53年度
- 高山村 昭和54年度
- 安中市秋間 昭和55年度
- 宮城村 昭和56年度
- 明和村 昭和57年度
- 妙義町 昭和58年度
第25集が最後のようです。昭和33年(1958)から昭和58年(1983)の25年にもおよぶ大作となっております。惜しむらくは25年の間にも失われたものがあるはずです。桐生市梅田町は昭和29年に山田郡梅田町から桐生市に編入され、高度経済成長をつづける日本の中で地方でも都市化がすすんでいたわけですから調査をするにはギリギリの年代だったかもしれません。
目次

- 序
- 発刊まで
- 口絵写真
- 梅田町全図
- 概観
- 旧梅田村小字一覧
- 衣・食・住
- 生産・生業
- 交通・交易
- 社会生活
- 信仰
- 民俗知識
- 郷土芸能
- 民謡わらべ唄
- 人の一生
- 年中行事
- 口頭伝承
- 民家
- 資料
高山彦九郎「忍山湯旅の記」
索引
感想
300項もあるのですべてについて述べるのは不可能です。いずれにしても現在(2021年)において、しかも他所から来たものが実感できるものはかなり少ない。やはり過去のものとしての記録的な要素が強い。読んでもすべてを覚えられるわけではないので辞書的な使い方がベストかもしれません。今後はちょくちょく引用として使うかもしれないですね。
つまみ読みをするといつも通っている場所でこんなことがあったとかこういう経緯だった(例えば入飛駒の合併前後など)ということが記されています。
石鴨キャンプ場
村のひとたちが六人で共同出資して天神さんの向う岸にキャンプ場をつくった。特別に大きな宣伝もしないが若い人が良く来て一泊ぐらいしてゆく。
市営山の家
山地の北小学校は先年廃校になったが、市の予算をもって改修して再び利用する計画が実を結び、八十人分のベッド、寝具、枕を備え、給食施設などを増設して十分な設備ができた。夏になると市内各地の子ども会や小学校が、一泊二泊の計画で入校してくる。
P69より
石鴨キャンプ場の天神さんとは石鴨天満宮のことだと。今となってはこの向う岸にキャンプ場があったとは思えません。北小学校とは桐生市立梅田北小学校のことで改称して 桐生市立 梅北山の家となった施設のことでしょう。こちらは地元の方に聞いたことはあります。
梅田町は桐生川が南北に流れていて梅田湖(桐生川ダム)があります。このダムは着工が1972年なのでこの調査はちょうどダム建設前という時期でもありますので調査年度としてベストタイミングだったと思います。
蛇留淵部落 昭和44年 蛇留淵部落 令和3年
写真にあった 蛇留淵(じゃるぶち)部落の新旧。木々が邪魔していますがほぼ当時の外観を伝えています。栃木県時代からずっとこのままなのでしょう。
奥付
群馬県民俗調査報告書第12集「桐生市梅田町の民俗」(非売品)
昭和45年3月28日 印刷
昭和45年3月30日 発行
編集発行者 群馬県教育委員会
発行所 群馬県教育委員会事務局
印刷所 朝日印刷工業
こちらの書籍は桐生市立図書館で貸出は可能です。ただし開架ではなく書庫に入っています。検索機でレシートを印刷してカウンターにて職員の方に持ってきてもらう必要がありますので注意してください。